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 御祭神 

     天棚機比売大神(あまのたなばたひめおおかみ) 栲機千々比売命大神(たくはたちちひめおおかみ)
    地代主大神(とこしろぬしおおかみ) 八重事代主大神(やえことしろぬしおおかみ)

機物神社の由来と七夕まつり復活について 

 機物神社宮司 中村武三
機物神社の呼称及び七夕伝説との結び付きについては諸説ありますが、一説によると、古代、枚方市「津田」を「秦田(はただ)」、
交野市の「寺」を「秦山(はたやま)」、「倉治(くらじ)」を「秦者(はたもの)」といっていた時代がありました。
神社の名称はこの「秦者」の人たちが祀る社ということで、「ハタモノの社」が本来の呼び名であったと思われますが、
後に七夕伝説と結び付けられて、「秦」の機織りの「機」に換えて現在の機物神社のイメージ作りが行われたといわれています。
起源は古く四〜五世紀にあるとも考えられますが、五〜六世紀の頃に秦氏に代表される交易商人によって組織された養蚕布織の
技術を持った民が大陸から渡来して、一部の集団が東部産地の麓に定住した時といわれています。

当時、交野山と太陽の位置関係で、ある特殊な日に特別な現象が起きることに着目して大陸から呪詛祭祀の習慣を持ち込んで、
祭祀の場を「堂(くつ)」と言う神堂を設けたのが創まりではないかと言われています。特別の日の特別な現象とは、冬至の日に、
機物神社の境内から交野山に重ね合わされた日の出が見られることです。
このために、この場所は特別に神聖視された祭祀の場所となったようです。条件がよければ、冬至前後の数日間は交野山山頂に日輪が
光り輝く直前に交野山の裏側に白道(しろみち)(白い光の帯)が奔り、朝日山を鮮やかに浮き立たせる現象を一瞬見ることができる
ようです。祀ができる以前は交野山(岩屋)そのものが、機物神社の御神体であり誠に広大な地域を有していました。長岡京が当神社
の御神体であった交野山の真北に配置されていることが道教的世界観に基づくものであることはよく知られているところです。
後に和気清麻呂の進行により京都へ遷都し、平安時代を創始した桓武天皇もこの地をしばしば訪れています。因に現在の境内にある鳥居
の内のひとつは交野山と伊勢神宮の両者に向かって参拝できるように設計されています。

もう少し時代が下がると、室町時代の文明八年に、後土御門(ごつちみかど)天皇の勅により神紙管領の卜部兼倶(うらべかねとも)の
奉幣に始まるとされています。 祭神に出雲系氏族の神の 地代主命(とこしろぬしのみこと)や 事代主命(ことしろぬしのみこと)
が弊社に含まれているところを見ますと、軍神としても尊ばれ、元亀・天正・文禄・寛文年間には、信長や光秀・秀吉・家康らによって
手厚い庇護の手が差し延べられたことも記録されてありますが、祭神の起源は、農耕・産業を司るのが本来のありさまで、後世になって
七夕伝説と結びついて、手芸・学問の神としても尊ばれるようになり現在に至っています。

  ご祈祷の申し込み及びお問い合わせは 電話072-891-4418(社務所)まで 大阪府交野市倉治1丁目1-7

 

おしらせ

2013.7.24 機物神社ホームページを開設

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